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本年度の研修旅行は、鎌倉時代以来、島津氏の領地として独自の発展を遂げた鹿児島県を訪れた。この地方は、明治維新を推進した多くの人材を輩出する一方で、明治初期の徹底した廃仏毀釈のために、伝統的な仏教文化が失われた所でもある。また、太平洋戦争末期には、知覧の特攻基地から若者達が海の彼方へ飛び立った場所としても知られている。知覧特攻平和会館を訪れた感想等は、既に三氏が研修旅行記で触れているため、ここでは仏教に関わる二つの事柄を記すことにしたい。
第一は、奈良時代から室町時代まで、大陸との交流の最先端基地として栄えた坊津を訪れたことである。奈良時代にこの地が遣唐便船の発着地として定められると、多くの使節や留学生がここから大陸へ旅立った。唐招提寺を開いた鑑真が上陸したのも坊津である。また、道元禅師もこの地から中国に渡り、この地に帰着したと言われている。
坊津の名前は、6世紀に百済僧の日羅が創建したと言われる真言宗の一乗院に由来する。皇室の勅願寺でもあったこの寺は、島津氏の庇護を受けて繁栄したが、明治2年に廃仏殿釈で破却された。現在、その跡地は坊泊小学校の敷地になっており、二メートル程の二体の仁王像と、1.2メートル四方程の四角い墓が並べ歴代住職の墓地が残っているのみである。また、重要文化財のハ相涅槃図をはじめ、わずかに残された同寺の仏具等が、坊津歴史資料センター輝津前に保管されている。
ちなみに、坊津には道元禅師とともに中国に渡りながら、彼の地で没した明全和尚の墓があると言われてきた。だが、輝津館で尋ねたところ、数年前に行った発掘調査の結果、そこに埋葬されていた遺骨等は江戸時代頃のものであり、それが明全和尚の墓でないことが明らかになったという。
第二の報告事項は、拝登した曹洞宗寺院に関してである。今回拝登したのは鹿児島市の松原山大中寺と、始良郡の吉祥山紹隆寺である。
大中寺は弘治2年(1556)に島津貴久(大中)が自らの菩提寺として創建した。かつては松原山南林寺と称し、松原の中に七堂伽藍が建ち並んでいたというが、明治2年に廃絶された。現在の大中寺は南林寺を復興するため、大正6年に現在地に移転した上で、永平寺の森田悟由禅師を拝請して開創された。境内には、宝暦4年(1754)から二年間、幕府の命令のため、木曽三川の治水工事に従事して落命した薩摩藩士の慰霊碑が建てられている。
一方、紹隆寺も江戸時代までは島津氏の分家の菩提寺だった。しかし、同寺も廃仏殿釈のために廃絶。昭和63年に永平寺の出張所として復興された。私達は監寺の宗像良孝師の歓待を受け、この地における布教の様子を伺った。
この他、私達は鹿児島市で、応永元年(1394)に開創された島津氏歴代の菩提寺、玉龍山福昌寺の跡地を訪ねた。同寺は江戸時代には門末約千五百カ寺を従え、薩摩藩を代表する曹洞宗寺院であったが、明治初年に傘下の寺院とともに徹底的に破壊された。現在、福昌寺の跡地は玉龍高校の敷地になっており、その背後に島津氏歴代の墓所が残されている。だが、それぞれの墓石には法号とは別に、明治時代に追贈された神号が刻まれている。禅宗に帰依した島津氏歴代の当主達は、自らの菩提寺を破却され、自ら望まない神号を押し付けられて、泉下で何を思っているだろうか。
明治維新の推進力を育んだため、かえって激しい廃仏殿釈に直面し、先祖代々培ってきた仏教文化を失った島津氏の運命に、歴史の皮肉を感じた研修旅行であった。
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